[ 文:橋本真由美 写真:橋本道継 ] 2015年9月9日

京都伏見店の裏は船着き場だった

京都伏見店のカフェスペースにかけられている暖簾「草津湊」。お客様から「草津湊って何?」とよく尋ねられます。

今回の話は、名前の由来から始めましょう。

鉄道のない時代、人や物を早く運ぶには川伝いの船を利用していました。店の裏を流れる桂川は古くから水運が盛んで、桂川と京都市内を流れる鴨川との分岐点となるこの場所には、大阪と京の都を中継する大きな河川港があったのです。

この付近は「草の生い茂った津(=船着き場)→草津」と呼ばれていました。物資の輸送はもちろん、西国へ向かう人々の重要な乗船場であり、学問の神様で有名な菅原道真公が太宰府に左遷させられる時も、ここ草津の港から舟に乗ったと伝えられています。

店のすぐ裏の羽束師橋から見た川の分岐点。向かって左に桂川、右には鴨川。草津湊はこの辺りにあったらしい。


草津湊は瀬戸内からの生鮮魚介類、米や雑穀などの物資を陸揚げする重要な河川港として発達し、秀吉の伏見城築城により多くの鮮魚問屋や米問屋が軒を連ねたそうです。草津湊のすぐそばにあたる、この京都伏見店の建物も古くから米屋を営んでいました。

江戸時代には徳川幕府よりこの地に公設魚市場の設置命令が下り、それが日本初の魚市場、今の京都卸売市場のルーツとなったそうです。

後世の河川工事で草津港の正確な場所は今ではよく分からないそうですが、
京都伏見店の住所「横大路草津町」にその名残を残しています。

「やなぎ谷」「舟のり(乗船場)」と刻まれた碑。ここが船着き場であったことがわかります。当時は柳谷観音(京都府長岡京市)に参拝する人が多かったのでしょうね。


伏見の街のはじまり 〜太閤さんのドリームランド〜 

さて、ここ草津の地が一大問屋街になったきっかけにもなる豊臣秀吉の登場です。

伏見の街づくりは秀吉さんが晩年に築いた伏見城築城に始まります。大阪(大坂)と京の都をつなぐ中継地だった伏見に壮大な城を築き、当時の最先端をゆく水路と陸路の大規模な土木改修事業を行いました。これが現在の伏見の街づくりの基礎になっています。


川の流れを引き入れて大阪城と伏見城を最短距離で結ぶ伏見港を作り、さらに川の流れを城内と街中に直接引き込むことで水路網を整備。 陸には新たに街道を作り、城と直結する橋をかける。自分の城下に大阪からの物流をすべて引き込むことで、秀吉さんの夢が次々と具体化されていきます。

伏見港は昭和38年に役割を終え、船溜りだった場所が埋め立てられて、現在は公園となっています。


伏見港跡。ピーク時には江戸、大坂、京の都に次ぐ人口第4位の内陸湾岸都市だったそうです。

当時は大阪から伏見までは水路、伏見から京都へは陸路というのが一般的だったので、伏見は大阪から京都、全国へ向かう水路と陸路の交通の要衛となりました。そして城下に集められた各地の有力大名や大名に呼び寄せられた商工業者が住む、政治と経済の中心地。まさに太閤さんのドリームランドができたわけです。


伊達政宗、石田三成、前田利家、上杉景勝…、有名武将のお屋敷の数々はまるで戦国時代村。

全国に城下町はいくつも作られましたが、名だたる大名屋敷が軒を連ねるように集中している都市は伏見の他には見当たらないのだそうです。


赤丸のところが、当時の「四つ辻の四つ当たり」。 今の「四つ辻の四つ当たり」。

警護上、敵陣が道の先を見通せないようT字路を組み合わせて作られた「四つ辻の四つ当たり」とよばれる変則の四つ角が今もそのまま使われています。

実際走ってみると分かりますが、どこから走ってもクランク状で、とても走りにくい交差点です。そもそもそれが目的なので、当時の街づくりがそのまま残っていると思えば許せるかな(でも走りにくい)。


江戸の始まりは伏見から 

そんなドリームランド伏見城を徳川家康が放っておくわけがありません。秀吉さんの死後、伏見城には家康さんがドンと居座り、更なる都市整備を進め、お気に入りの地で将軍宣下を受けて幕府を開いたのです。最初は江戸幕府ではなく伏見幕府だったのですね。

商店街のど真ん中に建っている銀座跡の碑。家康さんは伏見に日本で最初の銀座(今で言う造幣局)を設置して、全国統一の貨幣を作りました。


家康さんの死後、伏見城は跡形もなく壊されますが、多くの建物や資材がリサイクルされ、京都のあちこちで城の遺構を見ることができます。

近隣では、パワースポットと銘水で有名な御香宮の大手門

正面には「伏見城大手門」の文字。 拝殿。神社のイメージを覆すような絢爛豪華さ。

石垣も転がっています、捨てたのか余ったのか…。 大手筋商店街近くの源空寺の山門。

他にも、二条城の本丸御殿、西本願寺唐門など、豪華な建物はあちこちに移築されました。
どれもこれも派手です。絢爛豪華な桃山文化…というとお堅いですが、秀吉さんの派手好きが偲ばれる建物巡りも面白いかもしれません。


政治の中心から商業の中心地へ 

お城がなくなり幕府が江戸に移った後も、伏見は交通の要所としての重要性が引き継がれます。

参勤交代制では、西国大名の滞在地に指定されたことから多くの大名屋敷が立ち並び、豊臣〜徳川期に整備された街中の川沿いには、酒造業をはじめとする様々な商いが賑わいを見せました。
伏見奉行所跡。江戸時代を通じて伏見奉行所は全国の筆頭でした。




酒どころ伏見は水路によって発展しました。明治時代に鉄道が開通するまでは、寺田屋のような船宿が川沿いに何十軒も立ち並んでいたそうです。


竜馬通りと呼ばれるレトロな商店街。歴史は古く約400年前に近隣に遊郭ができた際、そこで働く遊女の日用品を売るようになったのが始まり。坂本龍馬の経済学の才覚にあやかって近年「竜馬通り」と名付けられ、龍馬ファンが多く訪れるようになりました。

幅3mほどの小さな路地ですが、観光市場と思いきや、地元の人に親しまれる庶民的な小さな商店が立ち並んでいます。


日本初の電車が伏見を走る 

明治遷都で首都が東京に移り、衰退を危惧した京都の市民は、産業復興のために琵琶湖疏水という水路を作り、国内初の水力発電所を建設しました。

明治28年、平安遷都1100年を記念した博覧会が京都で開催されるのを機に、水力発電を利用した国内初の電気鉄道が開通しました。大阪からの水運があり物資流通の拠点である伏見は、大阪から舟でやって来る博覧会の観光客を京都中心部に運ぶ役割を果たしていたそうです。
電気鉄道発祥の地の碑。駿河屋という和菓子店の脇に立っています。

市電が走っていたころ。 現在の同じ場所。電車の軌道跡は歩道に変わりました。

駿河屋(するがや:創業二百有余年の老舗和菓子屋)の真横を走る市電。店のご主人が鉄道好きで、写真に収めていたのだそう。電車は1970年に廃止されましたが、今も京都市バス(81系統)が往年の路線と全く同じコースを走っています。

明治中期以降、鉄道網の発達に合わせて経済の中心が京都市中心部や大阪に移ったことから、伏見の港町は衰退したまま長い間放置され、近年の土地開発により当時の姿はほとんど残っていません。

駿河屋さんでいただいたハガキより。


京都市の一番南、今ではすっかり下町の色が濃い伏見の街に散らばった足跡を拾い集めてみると、サムライと商人がワイワイと暮らす風景が思い浮かんできます。当時は大都市だった伏見ですが、太閤さんの時代からその下町風景は、実は変わっていないのかなと感じます。

交通の要所で活気があり、多くの人々が行き交ったからこそ歴史上の舞台にもなった伏見。京都伏見店に来られましたら、ぜひ往年の伏見の街を想像しながら、裏の桂川を眺めてみてください。草津湊は残念ながら、どこにも見えませんが…。





おわり



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